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       昔なつかしい写真もあります。お爺ちゃん・お婆ちゃんに見せてあげて、昔のこの
       付近の話を聞きながら、ご家族で思い出話に花を咲かせて頂ければと思います。
       また、古い写真をお持ちでしたら当院受付までお持ち下されば、可能な範囲で
       掲載させていただき、子どもたちに伝えていきたいと思います。
       また、当院では掲載の写真を待合室でも見ていただけるよう思案中です。

No1
●惣兵衛川 桜  ●庄内小学校の歴史 ●当院の前の歯科医院 ●ダイヤモンドシティ
●ケンタッキーFC1号店 ●昭和初期の空撮写真
●龍影閣(庄内公園) ●稲生街道渡し
●名古屋味噌溜株式会社 ●名塚離れたバス停 名塚村の大移動 稲生の合戦
No2
名塚ー稲生が原の地形は ●渡辺製菓:野原社長 稲生合戦書かれている本 ●総兵衛川に架かる橋名
●名古屋高速道路 最大の ●名西橋 ●笈瀬川が流れていた? ●名塚は庄内川中州にた
●名古屋高速道路最大のカーブ 便利な庄内通~名塚 ●今も残る「笈瀬川」 ●庄内川は天井川
  *記述内容は「庄内町誌」・「庄内小学校100年誌」・「西区の歴史」「西区70年のあゆみ」、その他の文献、ネット等で可能な限り信用性のある情報を元に記載しています。できる限り出典を明記しますが、間違いや訂正、ご意見、さらには関連する情報などをお持ちの方は、お手数ですが、下記メールでお知らせ願えれば幸いです。 
メール 
dze02746@gmail.com
 庄内学区の紹介 (西区役所HP→学区の紹介より転載)

  明治以前この辺りは尾張山田荘に属し、北に庄内川、南に矢 田川が流れ、その中に名塚村、新福寺村、堀越村があったが、度々の洪水で大きな被害を受けたため、慶長19年以降現在地に移住した。「尾張徇行記」によれば、名塚村74戸270人、新福寺村27戸116人、堀越村68戸335人。
大正の末期までは純農村地帯であったこの地も、名古屋布袋線の開通と庄内川橋の架橋により商工業の発展は目覚ましいものがあった。特 に、東洋レーヨン、御幸毛織等の染色・毛織物工場等の進出により人口も増加し、住宅の街として長足の進歩をなしてきた。昭和12年に名古屋市域拡張により、当時の西春日井郡庄内町から西区の区域 となった。戦後、国道22号線開通により、新 名西橋が架設され、また平成5年には地下鉄3号線が上小田井までの延長により、名鉄犬山線と相互乗入れも実現した。さらに、平成19年には名古屋 高速道路も完成、ここから双方向に乗り入れでき、一宮で名神高速道路とドッキングし、他県への交通玄関口として今後ますますの発展が期待される。

 ◆惣兵衛川 (庄内用水) の歴史
 当院の東側を流れる惣兵衛川に沿って毎年、桜がきれいに咲きます。
 この付近から北区辻町・辻新橋にかけてはお花見ウオークコースとして知られるようになってきました。また、桜のシーズン以外でも緑道として多くの方が、散歩されている姿をみます。
   惣兵衛川(庄内用水)の開削は1570年~1592年と伝えられています。関ケ原の合戦の30年も前です。
 庄内川から南流する用水路では、名古屋最大の農業用水で、江戸時代に大きく整備されたようです。
 惣兵衛川の名前は、改修したひとの名から付けられたといわれています。
名古屋歴史ワンダーランド(水辺を訪ねて)のHPより抜粋させていただきました。
 ◆庄内小学校 今年で創立143年目(2016年) その経緯
 
  <時代とともに変わった庄内小学校>
 明治の初めまでは、名塚と新福寺村にそれぞれ寺子屋があったそうです。
 明治6年、政府の命で義校という「学校」が名塚、堀越、新福寺、児玉村の4つの村の合同ででつくられたようです。これが今の庄内小学校のはじまりです。場所は以前の渡辺製菓(今の笹塚町)のあった所でした。

 (昭和48年発行の庄内小学校100年誌より抜粋します
    その後、大正14年に、当院の西100mくらいの現在の「Vdrug」がある所に、移転し左のような校舎が作られました。当初は460人程度の生徒数でしたが、庄内村から町になり、商店や工場ができ人口が増え、生徒数も増加して、校舎も増築されていきました。
    昭和12年には名古屋市に入り、名古屋市庄内尋常高等小学校となり、生徒数も1700人を超えたそうです。当時は夏になると、子どもたちは庄内川や、惣兵衛川で泳いで遊んでいたそうです。今の80歳代以上の方は、記憶にあるかもしれませんので聞いてみてください。左写真は昭和12年当時ですが、昭和16年、庄内国民学校と名が変わりました
 戦争が終わり、学校の窓ガラスはほとんど割れ教室も荒れていましたが、幸いにも焼失を免れました。 左の写真の学校の周辺には田畑が残っているのがわかります。この時代食料難が続いていたので、庄内川の河原でも農作物を作っていた様子が写真からもわかります。また、教科書もない時代でしたが、子どもたちは、田畑で元気に遊んでいたと、記念誌には書かれています。
 S42年工事中
朝礼の様子
 
 昭和35年、それまでの木造校舎から4階建ての鉄筋の校舎に順次建て替わりました。
 上空から写真は昭和45年ごろで、この校舎で現在70歳~30歳代の方々が学びました。
現在は、この地の北東角に、「庄内小学校跡」の碑が建っています。
     その後、学校西側にプールが作られましたが、生徒数の増加とともに手狭になり、平成4年に、その場から西に300mの所に移転しました。庄内学区としては、やや北西に当たりますが以前の3倍以上の広さになりました。
ここは、元々は中京羊毛,中央化学という工場の広い跡地でした。60歳代以上の方なら、その工場はご存知と思います。下の写真で新旧の位置を示します。


                      Google Earthより
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◆当院の前 歯科医院でした (昭和30年~59年)
    当院は以前、昭30年から59年まで親族が「石黒歯科医院」が開業していました。まだ一般には口腔衛生が普及していない時代で、むし歯の方も多く、一時は早朝から並んで診察を受ける光景もみられました。
当時、この医院に受診された方もおみえになると思いますが、35年が経ちました。40歳代以上の方は、小学生のころに通った方がおみえになるかもしれませんね。

 
 ◆ダイヤモンドシティ → イオンモール名西  その前は味噌溜工場だった

         
スーパーの ジャスコとヤマナカが同じ建物内で食料品を販売していました






http://toppy.net/nagoya/nishi11.html より転載
   現在のイオンモール名西店は以前、「ダイヤモンドシティ」という複合型施設でした。昭和45年開店ジャスコ、ヤマナカやカーマ、マツヤ電気、ダイソーなどの大型店を含む専門店120店舗が入居し、全盛期だったボーリング場やプール、スポーツクラブ、医療センター、レストラン街もあり,一時は映画館も
併設していました。
日曜・祝祭日は駐車場に入れない車が並ぶ光景もみられました。
 当時は都市型ショッピングセンターとしては市内随一で、西区外や市外から多くの人が集まりました。現在のように大型ショッピングセンターがない時代に、下町にこのような施設ができ 「西区」が注目されるきっかけになったそうです。地下鉄開通の14年も前のことでした。
 しかし
建物の老朽化と駐車場が狭くなるなどで、平成17年、35年間の幕を閉じ、現在のモゾ(前ワンダーシテッィ)に移転しました。50歳代以上の方は、ここでボーリングをしたり、水泳の思い出があるのではないでしょうか。
 
 ◆ケンッタッキー日本第1号店 ここにあった! 
 

   

  
カーネルをクリックするとKFCのHPがご覧いただけます
KFCのHPの歴史ページに、1号店の記載があります。
 意外に知られていない?のが、ここの駐車場にケンタッキーフライドチキンの日本1号店が出店したことです。あのカーネルおじさんも立っていました。
 大阪で万国博覧会が開かれた1970年。まだ、マックやミスド、ロッテリアなどファーストフード店がない時代。残念ながら当時はフライドチキンの匂いや味などが一般には受け入れられず?客数も伸びず、わずか1年余?で閉店しました。
それにしても、なぜここに日本初の店を出した?想像するにはケンタッキーのマーケティング調査から名古屋っ子は鶏肉が好きで、よく食べると推測したから?。今は鶏の手羽先が全国的に有名ですが、ケンタッキーも多くのお客さんを集めています。少し、時代が早かったのでしょうね?あまりに短期間で撤退したので、記憶に残っていない方が多いかもしれませんね。

◆名古屋味噌溜工場 今の「キッコーナ」があった 
  (庄内町史から転載)   このダイヤモンドシティの土地は、それまでは名古屋味噌溜株式会社という工場の跡地でした。この会社は、現在のキッコーナ(本社:北区)で、豆腐や味噌、たまり、各種たれの製造販売を行っています。トレードマークとして「名」の字を六角形(亀甲)に象ったものを使用しています。
 大正8年創業し、昭和39年に扶桑町に工場を移転するまで、ここで製造していたそうです。
左の写真は、当時の珍しい上空kら北西方向の工場の写真です。よく見ると右上に庄内橋が見えます。
60歳代以上の方は、ご存知かと思います

 
醸造絵巻:キッコーナHPより
  ところでキッコーナは非常に歴史があり、元禄元年に佐野屋興右衛門が創業し、大正8年地元5店を合併して前身となる名古屋味噌株式会社を設立しました。
創業300年余、杉桶を使った昔ながらの製法で、時間をかけ醸造させていた様です。その工程は同社HPに醸造絵巻として掲載されています。
ここにあった工場で、こうした桶を使って味噌を作っていたのでしょうか?
もしかしたら、ご高齢の方でこの工場で働いていた方がみえたかもしれませんね。

約90年前と現在の庄内学区を見比べてください。今90歳の方が生まれたころです。
右は昭和2年米軍が撮影したもので、名塚町の宗圓寺さんよりご提供頂いた貴重な写真です。
当時の庄内学区の様子がよくわかります。右中央に名古屋味噌の工場があり、左の写真より
現在のイオンモール名西店の位置と比べてください。 
 戦後まもなくまで庄内公園にあった龍影閣(現:熱田神宮) 国の有形文化財に!
    龍影閣って?
 明治11年
、総見寺(大須)境内に名古屋博物館の施設として建てられ,その後開催された博覧会の品評所として使用された建物。2階は博覧会を視察した明治天皇の休息所でした。
その後、明治43年品評所は明治天皇の聖蹟として遺され
龍影閣と命名されたました(階下64坪、階上17坪)
 昭和7年の都市計画により西区の庄内公園内に移築されました。その際には庄内町を中心に「龍影閣保存会」を設立し寄付金を集めるなどの活動記録が庄内町誌に記されています。
 
   移設後は、青少年育成の修養道場として使用されたものの次第に荒廃がひどくなり、昭和21年当時の渡辺製菓社長(後述)の野原新太郎が愛知県に陳情し、建物を県より譲受け維持保存に務めたそうです。
 昭和43年、明治維新100年を記念して、野原より熱田神宮に寄贈・移築されました。2階は明治天皇の御座所として保存されています。造形の規範となっているものとして平成13年国の登録有形文化財に登録されました。
 (ウィキペディアより一部抜粋) 

写真:文化財愛知ナビより

 この龍影閣は、明治天皇が愛知県に行幸の折に造られた由緒ある建物として、熱田神宮に移築後、写真のように改修され神宮西門から入って左手奥に静かに佇んでいます。
 70歳以上の方は、庄内公園に、このような立派な建物があったことを覚えておられるのでは・・・。






写真は熱田神宮HPより


 庄内公園は、当時は
「庄内川の清流の堤上に位し、南は金鯱の輝く名城を望み西北は豊沃な尾濃の平野を俯瞰し、聖大帝を偲び奉るには絶好景勝の地」と庄内町誌に記載があります。写真左端(下左図の★)に龍影閣が位置していました。
右奥は、当時の庄内川橋、現在の橋より東側に架かって庄内通りは公園の東側を通っていました。しかし、昭和46年、現在の橋に架けの際、庄内通と橋を直線にするため、下図のように公園は分断され、各施設も撤去されました。40歳代以上の方は、ここで遊んだ思い出ありませんか。

 庄内公園昭和7年、庄内川堤を一部拡張して庄内橋南詰に開園。当時は南に名城金鯱を眺め北に御嶽の雄峰を望める眺望景勝の地として、近くの小中学校の遠足や写生の地となっていたようです。現在は、庄内公園というと庄内緑地公園を想定しますが、昭和40年代まで市バスの庄内公園行があり終点になっていました。
とくに春は堤で土筆をとったり土手で寝そべったり、すべ下りたりして、子供の格好の遊び場でした。
 
 昭和39年-43年
図は名古屋都市計画情報提供サービスより引用
 昭和48-52年

(都市計画基本図情報)
 ◆知ってましたか?分断された庄内公園 行き返りのバス停が300mも離れた?
    
  現在の庄内公園は真ん中に道路が通っています。昭和46年までは庄内川橋が東側にあり道路も公園横を通っていました。龍影閣も図の当たりにありました。
 ところで今も、庄内公園のバス停はありますが、一方は庄内川橋の上、他方は橋を下って約300m離れた場所
のところにあります。行きと帰りでこんなに離れたバス停他にありますかね?
 ◆名塚のバス停 4か所がバラバラに離れています
 


 その市バスですが、上図のように名塚バス停(黄色)は4か所が、交差点を挟んでバラバラにあります。行き帰りで最大180m離れています。交通事情により仕方ありませんが、 初めての方にはわかりにくいですね。
また、上中央のピンクのバス停は、隣の庄内公園のバス停で、すぐ近くにあります。
      
 ◆庄内川橋が架けられたのは明治42年 それまでは「渡し」でした。
 

左上の地図は江戸時代後期のもで、名塚村を稲生街道が通っていた。街道は名古屋城築城以前から熱田神宮へ通じ、熱田街道とも呼ばれていた。名古屋城築城時に道を広くして街道として形が整った。   
経路は幅下から浄心寺を北に向かい,惣兵衛川に架けられた地蔵橋で一度右に曲がり,安性寺の西を通って矢田川の堤防に出る(左上経路図)。ここから、矢田川は歩いて渡り、庄内川は渡し舟で渡った。  

これが、稲生の渡しといわれ、
近隣の村に6隻の渡し舟が用意され、一人2文の渡し賃を取って通行人を渡していたらしい。しかし、この渡しも、増水時には出ないことが多く、不便であったと推測されます。
 下の絵は江戸名所図解に描かれた稲生の渡しの様子です。当時のこの付近の川筋が分かれた状態が想像できます。

  

庄内川橋の変遷  明治中頃までは、この渡しで船で往来していましたが、一方で何度も木の橋が造られたようです。しかし、当時の技術で造られた橋は洪水のたびに流されていたとの記録があります。
その橋の変遷を写真で見ましょう。 (庄内町誌、庄内小学校100周年誌より転載)

左は明治30年代に架けられた木造の橋の工事の様子。

右は、明治42年初めて本格的な橋が架けられたが、何度も洪水で破損していたようです。
         



 
そのため、大正15年にはのような近代的な鉄橋がかけられ、車の往来も可能になりました。さらに、昭和10年頃には、交通量も増え橋の幅も広がり、中央の写真のようにバスも通っていたようです。当時は、こうした橋が珍しく右の写真のように見学に来る人が多くいたようです。

   昭和43年、橋の老朽化と、それまで庄内川橋南詰で昔の稲生街道に沿って曲線になっていた道路を直線化し、庄内通の交通渋滞をなくすため、架け替え工事が始まりました。
左の写真は、北側から市内方向を撮影したもので、左側(上流側)に旧橋がみえます。
旧橋を渡った付近の右(写真中央部)が、当時の庄内公園でした。下写真の白点線が旧橋で左写真と対比してみてください。

   
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