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  1 惣兵衛川 桜  ●庄内小学校の歴史 ●当院の前の歯科医院 ●ダイヤモンドシティ
●ケンタッキーFC1号店 ●昭和初期の空撮写真 ●龍影閣(庄内公園) ●稲生街道渡し
●名古屋味噌溜株式会社 ●庄内橋離れたバス停 ●庚申塚・白山神社 稲生の合戦
名塚城の地形は ●渡辺製菓:野原社長 稲生合戦の本 ●総兵衛川の橋名
●地下鉄庄内通駅の豆知識 ●名西橋 ●笈瀬川が流れていた? ●名塚は庄内川中州
●名古屋高速道路最大のカーブ 便利になった庄内通~名塚 ●今も残る「笈瀬川」 ●庄内川は天井川
  *記述内容は「庄内町誌」「庄内小学校100年誌」「西区の歴史」、「西区70年のあゆみ」 その他の文献、ネット等で可能な限り信用性のある情報を元に記載しています。できる限り出典を明記しますが、間違いや訂正、ご意見、さらには関連する情報などをお持ちの方は、お手数ですが、下記メールでお知らせ願えれば幸いです。   メール dze02746@gmail.com
 稲生が原の合戦 天下統一への第1歩の勝利 (1556年8月)   庚申塚
  当院の北200mほどにある白山神社の付近は、1556年9月、「信長公記」によれば、織田信長は後継争いをしていた弟の信行に対抗し、家臣の佐久間重盛に命じ、2日間程度で築かせた砦があった地といわれています。砦といっても、土を盛り上げ木で作った塀で囲んだ程度と推測されます(下記に資料から推測)。

 信長をうつけ者として排斥しようとした弟の信行の命で、末盛城から矢田川堤防沿いに攻めてきた柴田勝家軍と、那古野城から北上してきた林秀貞の軍を迎え撃った拠点で、「稲生が原の合戦」ともいわれ、多数の戦死者が出たと、多くの歴史書(下記)に書かれています。当院の北東にある「庚申塚(こうしんづか)」は、その戦死者を、村人たちが丁重に弔った場とされています。稲生合戦戦没者供養塔が建っています。このことは、白山神社や庚申塚の立て札に書かれています。
 
この時、信長は22歳で、この4年後に桶狭間の戦いで今川勢を破り、天下統一に大きく踏み出したころです。
参考までに大河ドラマ「直虎」が20歳のころです。
この34年後、本能寺の変で信長が襲撃されました。

 
  
 ◆名塚城(砦)は、本当に白山神社付近にあった?
  この合戦の際、信長は清州城から応援に駆け付けたが、前日からの大雨で濁流の庄内川を、信長を先頭に馬を駆って渡り切り、初めは劣勢であった佐久間群に加勢し、、名塚の砦から稲生にかけての沼地で戦いを繰り広げ、柴田軍に続き、林軍に勝利したと書かれています(右の図参照))。
 ただ、この名塚砦(名塚城)に関しては、その場が明確に書かれた書物はなく、現在の白山神社がその地とされていますが、根拠となる遺構などは見つかっていません。
 
 信長関連の書籍にも庄内川左岸など曖昧な表現が多く、疑問が残ります。その右図では、名塚村や新福寺村は川の南に書かれていますが誤っています。この年にはまだ庄内川と矢田川の中洲にありました。
 従って、守備を考えれば中州こに築くのが定石といえますが、今の白山神社付近か疑問が残ります。その後に名塚村は何度も洪水に見舞われ堤防の南側に引っ越しして、その中州に砦があったとしても遺構は流され消えてみつからないでしょう。ただ、同じころに坂井戸城が、今の庄内緑地公園横の自動車学校の付近にあったとされ、その近くの中州に砦をつくったとかも疑問があります。別の観点から、当時の地形から周囲を見渡せる今の庄内公園の地とも推測されますが、いずれも決め手はなく、想像だけです・・・・。


庄内小学校100年誌より転載

この図では、現在の白山神社付近に砦が書かれ、すでにそこには、名塚村や新福寺村の記載がありますが、これらの村の引っ越しは、この合戦から60年以上あとのことで、正確とは言い難いようです。
 当時の名塚―稲生が原の地形は?            ◆名塚城(砦)のイメージは?
 
香川元太郎氏のGALLERY歴史館(愛知県)より転載
 
戦国時代を想定した那古野より北側を展望した地形の想像図。名塚ー稲生付近は沼地と想像できます。左上に清州の街がみられます。これはあくまでイラスト図ですが、下の現在の空撮写真と比べてみて下さい。
*図中の地名は、原図にはなく、筆者が想像して記載しています。この図からもわかるように、清州と名塚は直線で5km弱で、当時は馬で走れば15分程度の距離と考えられ、信長は日ごろからこの付近を駆け巡っていたとも想像できますね・・・。

香川元太郎氏のGALLERY歴史館(愛知県)より転載

 では、名塚城はどんな形状であったか。
稲生の合戦の4年後の桶狭間の戦いでも、信長軍として佐久間重盛は丸根城を築き、近くの鷲津城にも関与した、とされているので、香川氏のイラストから、この形状と似た砦ではなかったかと推測されますが・・・。  
     
 
当時の那古城から、清州城や平田城まで田畑や沼地であったので十分見通せたと推測されます。
 ◆稲生の合戦について、何に書かれているか
ところで信長関連の書籍を、Amazonで調べてみると、歴史書からコミックまで約450冊あります。
本能寺の変や桶狭間の戦いのような特定の事象について書かれたものも多数あります。

そこで、信長の初期から合戦について書かれた比較的新しい書籍から、この稲生の戦い(稲生が原の合戦)について書かれた5冊を選び読んでみました。 名塚城についての記述を見ましたが、詳細な位置については書かれていませんでした。

  一方、インターネットにもこの合戦については、ウィキペ ディアや、主に郷土史家や興味のある方が、実際に現地を訪れて記述したり、写真を掲載しています。.しかし、地元でこの付近の土地に詳しい方や名塚城の場所について、詳しく言及したものはありませんでした。 参考までにそのサイトを紹介させていただきますので、ご覧ください(多くの方に見ていただきたいと思い、お断りなくリンクすいません)
  ウィキペディア
  蓬菜の風
  お城を歩く
  名古屋の古道・街道
  ぼちぼちウオーキング
  戦国史に想う
  洋ちゃんのひとりごと
  尾張時代の信長をめぐる
  稲生の戦い
 ◆ご存じでした? 名塚は、昔は庄内川の中州にあった! 大坂冬の陣の年に移転





  






 
  名塚の部落は、約400年前の慶長19年(1614年)、上述した稲生の合戦から約60年後、それまで庄内川と矢田川にはさまれた今の庄内緑地の南部にあった部落(左上図)が、たびたびの洪水がありお寺や家、田畑が被害にあっていたことや、名古屋城の築城に伴い,堤防ができ完全に中州になったため、部落全体で現在の地に移転したようです。新福寺村や堀越村も一緒でした。
 このことは、現在の宗園寺の門前の立て札(右写真)にも書かれています。
この部落が堤防を越え移動した年は、2015年大河ドラマの真田幸村が大坂冬の陣で戦っていた年です。すなわち、徳川家康が豊臣を滅ぼし、江戸時代が始まったころのことです。
 (上の両図ともに庄内小学校100年史より転載)

 

江戸時代の新福寺から中央後方に庄内川堤防が見られる絵図。
この付近は、ほとんどが田畑であったことがうかがえます。 
(尾張名所図会より)








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◆惣兵衛川に架かる橋の名前の由来は?  

 
 
当院近くを流れる惣兵衛川(庄内用水路)に架かる橋には、ひとつひとつ名前があります。
 庄内通りに架かる「地蔵橋」から南西に地図と写真で示します。ただ、聞きなれない名前が多いので調べてみたところ、それなりの由来があるようです。次の項目をご覧ください。
 「笈瀬橋」には、この惣兵衛川(庄内用水)が作られた歴史などが書かれた説明版がたっています。お子様にも地元の歴史の一端を教えてあげてください。
 ◆惣兵衛川の橋の名前の由来は
 橋の名前の由来は、Wekipediaの「名塚村」には、江戸時代の西春日井郡名塚村の「字 あざ」名が多くあり、その名がつけられたと推測されます。字とは、今の丁目よりも狭い範囲を指していたようです。
以下に、その字の名を橋名にしたと考えられます。左上図の地蔵橋はお地蔵さまがあった場所、名塚橋は近くに名塚村役場があり名付けた考えられますが、それより下流の主な橋が、字名を使ったようです。南に向かい順番に

助ヶ上(すけんじょう)
 ・江股キ(えまたき)・井尾多レ(いびたれ) ・大金(おおがね)島江(しまえ) 才藤(さいと) ーーー・鳥水塚(とりみづか)ーーー・下黒部(しもくろべ)、上黒部(かみくろべ) ・違ヶ瀬(ちがいがぜ) · ・笠取(かさとり)
があります。
なおーーで示した・名耕橋(めいこうはし)は、この付近に名塚耕作管理所がこの付近にあっこと、また笈瀬橋(おいせはし)は、この付近から笈瀬川·が分流していたか、交差して流れていたことから、それぞれ橋名がついたと推測されます。 
上記の、3番目の・井尾多レ(いびたれ)は、略され井令橋となった?、7番目の・鳥水塚(とりみづか)は、鳥見橋となった?と推測されます。ただし、これらに根拠はありませんので、ご承知ください。

◆名塚を起点とした「笈瀬川」というがあった・・・・ 
 上の橋の図の下から3つ目に「笈瀬橋」という名の橋があります。江戸時代には、この橋の付近から支流として「笈瀬川」という細い川が流れていたようです。その源は明確でありませんが、惣兵衛川から分流したと推測されます。橋名は、その名残と推定されますね。
 この笈瀬川に並行して流れていた「江川」は、惣兵衛川の稲生付近から流れ出し、南下し中川区で、笈瀬川に合流していたことが右と下の図からわかります。右図は、現在の浄心交差点北東角の石碑に表示されています。付近を通られたら浄心寺の前の碑をご覧ください。
以前、ここから南は「江川町」「江川端町」があった。
 
この笈瀬川は、南に向かい児玉町、ノリタケの森東側、名駅西の椿神社前から、笈瀬本通を米野駅方面へと流れ、さらに南下し川筋は、「中ノ川」「中野川」と呼ばれ(現在の中川運河)、伊勢湾に注いでいたようです。 
 椿神社の境内には、この笈瀬川の記述があり、清流であったと書かれています。
 「おいせ」の名は、伊勢湾に通じていたので「お伊勢川(笈瀬川)」とよんだという説もありますが、真偽はわかりません?
 
  上図は五条川と庄内川の合流付近を主にした図のため、惣兵衛川の流れは正確ではないが、「おいせ川」と「江川」の記載はあります。名古屋城築城のころでしょうか?(江戸期古図より)。


浄心寺前の石碑より転写
この図がいつの時代化は不明ですが、名古屋西部の水路が推測できます。
 ちょっと推測??西区の老舗うなぎやと川の関係を独断と偏見で推理
  ここで、上記の江川と笈瀬川について独断と偏見で推測してみました。右図は浄心の西生涯学習センターのロビーの壁にかかる付近の大正時代の絵図です。
 このころまでは、「江川」も清流で、うなぎ等、魚が採れたという記述があります。また、西側を並行する「笈瀬川」も同様に水がきれいで魚が泳いでいた様です。

 ところで、西区の老舗のうなぎ屋の2軒「しら河」と「宮宇」はご存知と思います。その場所は当時の両川の脇にあります。「しら河」は昔の江川、「宮宇」は笈瀬川のほとりです。うなぎがとれていたと想像すると、江戸時代には前者が稲生街道、後者が美濃街道沿いで賑わいがあったと推測され、魚やうなぎ屋として繁盛していた?その店が現在も続いていると考えられませんかね。
あくまで勝手な推理ですが・・・。

 
浄心のすぐ東を江川が流れていた。
かっては江川町という地名であった。
 ◆笈瀬川は、現在どうなった? 今も残る「笈瀬川」の名
 明治のころから庄内学区はじめ、この笈瀬川流域に住む人たちが次第に増え、生活排水が流されるようになったと推測されます。この一帯も当時は、飲料水は井戸水が主でしたが、排水が地中に染み込み、井戸水を汚染するようになったため、大正時代から市が下水道の整備に順次とりかかりました。

 この付近は昭和3年から、生活排水を流す下水管埋設工事がはじまり、太い管を地中に埋めるには、掘削に多大な時間と労力を要するため、小さな川を利用したようです。つまり笈瀬川、江川も主要な下水管線として、埋められたと考えられます。

 従って、この笈瀬川下水管幹線の経路は、かっての川筋に相当し、露橋下水処理場を経由して中川運河に流されています。
 つまり、当院の下水も、道路下の下水管を通って、この笈瀬川跡の管に流れ、露橋処理場で浄化され、中川運河を経由して伊勢湾に流れているわけですね。ただ、雨水は、別ルートの下水があるようです。これについては、いずれ掲載の予定です。

この笈瀬川の当時の写真が右です。名古屋新聞の明治41年4月13日付けに写真が掲載されています。どの付近かは不明ですが、おそらく川の曲がり具合や橋から、今の中川区の長良橋付近ではないでしょうか?(あくまで推測です)。*名古屋新聞は、現在の中日新聞の前身の一つです。


 ところで、この笈瀬川という名が、今も明示された場所があります。名古屋駅と地下鉄亀島の中間のJRのガードした付近です。
右上の写真のルーセントタワーの裏側のガード付近にある駐輪場の名前に「笈瀬川駐輪場」と看板に書かれています。
 ただ、この笈瀬川下水管線は、建設後90年近く経過し老朽化が著しく、何度も改築工事が行われているようです。下記の文献に、その一部の状況が書かれています。

 




便利になった庄内通~名塚  地下鉄・高速道路・市バス


  庄内通―名塚付近は、平成19年12月名古屋高速6号清州線が開通し、一段と交通の便がよくなりました。とくに、清州線がカーブする付近で高速道路へ、どちらの方向からも出入りできるという利点があります。市内の高速道路でも、このような双方向へ出入りできるのは他に、黒川と吹上だけです。
 一般道路では、庄内通の拡幅で名古屋江南線が、以前より渋滞が少なくなり、さらには名西橋22号線から西部医療センターを通り41号線への東西の道路も広がり東西にもスムースな移動が可能になりました。。
 一方、地下鉄は名塚交差点の南に「庄内通」駅ができ、名鉄犬山線と豊田新線とが結ばれ、市内中心部だけでなく、どちらにも電車で行けるようになりました。
市バスも名駅、栄、西部医療センターに容易に行けるようになるなど、交通の要所となってきました
名古屋高速道路 出入りr口案内

 ◆名古屋高速の最大のカーブ 外側に数軒の建物がある珍しい風景、カーブ事故率も最低
   
                   写真:ウィキペディア 名古屋高速6号線より転載
         Googlemapより

  庄内通3丁目交差点で、高速道路が大きくカーブし、その外側に数軒の建物がある風景は、名古屋では見られません。これは、このカーブ半径(R)が450mという、非常に大きな曲線になっているためですね。名古屋高速道路の他の箇所のカーブ、例えば明道町のカーブはR90m、東片端がR86mなどの急なカーブに比べると、非常に緩いカーブで、カーブでの事故率も断然低いようです。下記文献に市内全カーブR値と事故率が提示されています
都市高速道路曲線部における安全対策効果と 走行性評価に関する分析:名古屋工業大学大学院 伊藤大智,土木学会誌)

     
 ◆地下鉄庄内通駅 豆知識  深さは? 防水扉がある・・・?
  当院の最寄り駅は、地下鉄庄内通駅です。この駅のこんなこと知ってましたか?
 昭和59年(1984年)、それまで浄心が終点であった鶴舞線が、庄内緑地公園まで延伸し庄内通駅ができました。この地下鉄工事に先立ち、庄内通りは幅15.0mから24.54mに拡幅されました。

 この浄心から庄内川の下を通る区間は、シールド工法というモグラのように掘り進む方式の工事でしたが、掘削下部の熱田砂質層からの湧水が著しく、工事期間中の総排水量はナゴヤドーム8個分にもおよび、市内地下鉄工事でも、前例のない排水量だったそうです。
ホームの深さは18.3mで、浅間町に次いで深く、鶴舞線には珍しい島式ホームです。
 この駅の北側には、庄内川の下を通るため万一川底から浸水した場合、庄内通駅の方が低いため地下鉄内を流れ出す危険に備え、防水扉(左写真)が設置されています。庄内緑地公園駅側にも設置されています。
 市交通局 庄内通→

 
庄内通駅すぐ北側に設置されている防水扉
 
  庄内通から庄内緑地公園付近の 地下鉄路線図です。開通当時の図で、ダイヤモンドシティと書かれています。また出入り口が2か所でしたが、7-8年前にエレベーターの出入り口が増設され、高齢者や車いすなどの方には便利になりました。
 庄内川は、「天井川」

地層断面図  「名古屋市高速度鉄道 庄内緑地公園・浄心間工事記録より」抜粋

 この地層断面図からわかることは、この一帯が黄色とベージュ色の砂礫や砂質層の上にあるということと、庄内川は、庄内通よりわずかに川底が高い「天井川」に近いといえることです。
庄内川上流は、土岐や多治見など古くから陶磁器生産のための陶土採掘や薪の確保のため、山林伐採が 行われ、少量の降雨によっても土砂が流出しやすかった。この運ばれた土砂が、春日井から川の傾斜が緩くなり、北区から西区にかけて堆積しやすくなって、川底が高くなり、昔から頻回に洪水が起きていました。そのため、これまで様々な治水工事が行われてきました。今でも定期的に川底を浚渫(しゅんせつ)しています。
 庄内川水系と治水工事→

 ◆ 「おモチもはいってペタペタと、安くてどうもスイマセン!」 の渡辺製菓がありました

昭和30年頃の渡辺製菓
 
 「おモチもはいってペタペタと、安くてどうもスイマセン!」と前林家三平さんの即席しるこのCMで、一世を風靡した渡辺製菓が、笹塚町の惣兵衛川沿いにありました。
50歳代以上の方は、このCMを覚えておられると思います。

現在もその頃の面影を残す工場入口。
今は春日井製菓の工場になっています。
 この製菓会社は、昭和7年に野原社長が創業。当初はガムを製造していました。昭和31年東京渡辺製菓株式会社」を設立、 粉末のジュースの素やしるこで人気を博しました。当時は工場の前を通ると、甘い匂いが付近を漂っていました。
 その後、63年に昭和産業に吸収され、さらにはカネボウハリス株式会社に吸収合併され、渡辺製菓の名はなくなりました。
 特筆すべきは社長であった野原氏は、昭和42年第1回「食品産業功労賞」を受賞。昭和43年には庄内公園にあった「龍影閣」(No1に掲載)を熱田神宮に寄贈・移築に貢献したことです。
 
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名西橋は 「めいさいばし」「めいせいばし」か。 高速度の橋は 「赤とんぼ橋」 知ってましたか? 
  

旧名西橋


現在の橋の下流に旧橋の痕跡が残っています。


  開通当時の名西橋 (市内側から一宮方面)

  橋西側の標記は、「しんめいせいばし」
  当院の西南にある国道22号線が庄内川をまたぐ橋が名西橋ですが、正式名称は「めいさいばし」といいうそうです(Wikipediaより)が、実際の橋の標記は、左下写真のように「めいせいばし」です。すぐちかくのバス停も「めいせいばし」と書かれています。通称は「めいせい」ですね・・・。

 この橋が最初に架かったのはいつか明確な資料は見当たりません。明治24年の古地図には架かっていますが、大正9年の地図にはなくなっています。
記録上明確なのは左上写真の昭和28年の架橋でした。
その10年後、旧橋より上流150mに新しい名西橋が建設され、国道22号線が一宮インターまで開通。その後、岐阜市までつながり、濃尾平野に伸びる大動脈となり、交通量も飛躍的に増加しました。

 さらに平成19年、名古屋高速6号清州線が、その上をまたいで新名西橋が架かり、その特徴ある形状と赤色から「赤とんぼ」橋と呼ばれるようになり、風景も一変しました。
そういえば、昭和50年代くらいまでは、この付近で赤とんぼがたくさん舞っている風景が見られました・・・。

 開通当時の 明盛橋





名古屋高速全線開通1周年「フォトコンテスト」入賞作品
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