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●「庄内川橋」は2つある! 橋の標記を考える・・・ |
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名塚、庄内学区の方々の多くは、庄内通に架かる橋を「庄内橋(しょうないばし)」と言いますね。しかし、正式名称は「庄内川橋(しょうないがわばし)」です。 地図や橋の北側の標記板や河川標識、信号にも「庄内川橋」と書かれています。でも、バス停は「庄内橋」です。おそらく、「庄内橋」の方が言いやすいので、昔から地元の人たちは、そう呼んでいたのでしょう・・・。 橋のすぐ下の自動車学校も「庄内橋・・・」です。また、付近にある賃貸住宅の名前にも「庄内橋○○」が複数あります。 でも、実はもうひとつ「庄内川橋」が別にあるのをご存知ですか。これは地図にも橋の標記もないので、あまり知られていませんが、名古屋第二環状高速道路が、守山区で庄内川をまたぐ橋の名前につています(右下写真)。 同じ名称の橋が近くに2つあるのは紛らわしいので、上記の橋は「庄内橋」でいいのでは・・・お役所の方考えて下さい。 ところで、その少し近くの瀬戸街道が矢田川に架かる橋を 「矢田川橋」という正式名の橋がありますが、近所の人たちはほとんど「矢田橋(やだばし)」と呼んでいるようです。 |
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名二環にかかる「庄内川橋」 |
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●惣兵衛川に架かる 「そうべいばし」 はどこにある? |
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通常、川にはその名のついた橋が必ずあります。庄内川橋もそうですね。では、用水路ですが惣兵衛川はどうでしょうか。ちゃんとあります。庄内学区からは、少し下流になりますが、枇杷島スポーツセンターの北の、昔の美濃街道に架かる橋が「そうべいばし」です。橋のたもとに標記されています。「僧兵衛川橋」ではありません。 この美濃街道、かって東海道の熱田と中山道の垂井宿と結んだ脇街道であり、とくに清州越しといって、1612~1614年にかけ名古屋城の築城にともない、清州城から枇杷島を経て街ごと引っ越した際の街道で、今は小さな橋です。当時はこの橋を多くの人馬が行き来し、橋のたもとに殿様が立ち寄った茶屋があったそうで、「尾州殿茶屋跡」の立札があります。 ところで、その惣兵衛橋の次の下流の橋名は、開運橋というそうです。その由来はわかりませんが、何となく、橋をわたると運が開けるという感じですね。上更交差点を西に枇杷島橋に向かって、初めての信号交差点のところです。 |
美濃街道に架かる総兵衛橋 上更交差点から旧国道22号を西にすぐ |
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●名塚町に多い食い違い角、T字路はなぜ? |
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お気づきでしょうか。名塚2-5丁目内の道路の交差が、食い違いや、丁字路、細い道が多いことが、左の地図(右写真の黄矢印を拡大)からもよくわかります。右上の写真は昭和30年代ですが、赤で囲んだ集落が、右から名塚町、新福寺町、堀越町で、1614年、江戸時代の初期に庄内川の中州から集落ごと引っ越した際の位置のままで、当時作られた区割りとほとんど変化がないと考えられます。(本ページのNo2、名塚村引っ越しの欄参照ください) つまり、まだ関ケ原の合戦後14年という戦国時代の名残りからか、以前名塚砦であったこの付近も、敵が大人数で列をなして侵攻できないよう道幅を狭くしたり、道の交差を食い違いにしたり、丁字路を作った?と推測されます。食い違いや丁字路は、敵の侵攻がしにくく、遠くが見通せな「遠見遮断」という、城下町にはよく見られる方式ですが、当時はそのような考えで集落を造ったのでしょうか根拠はなく不明です。このような道の形状は東側の稲生町の北部にも多くみられます。 左上写真で田畑の部分は、その後住宅地に変わりましたが、その街路は道幅も広く直角に交差し、対照的です。 なお、当院前の信号交差点も大きく食い違っていますが・・・? |
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上の地図は名塚交差点を示しますが、東西にずれて交差し、その1筋南も、庄内通1丁目の交差点も同様にずれています。このずれは不自然で、意図的と考えられます・・・?。 |
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●上堀越白山社 2月9日はだか祭り、今年も40人ほどが国府宮へ(2017年) |
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2月9日、寒風の中、早朝から上堀越白山社では、例年のごとく裸の年男約40人が集まり、見送る家族や近所の方の声援のなか、近隣の八幡神社、白山神社を周り国府宮に向かいました。 準備中 |